シュガーキングと呼ばれた男



本稿は2005年12月30日午後1時より福島放送にて放映された番組で語られた松江のストーリーです。福島放送ディレクター小原啓さんのご協力でここにその内容を紹介します。

明治41年、日本で初めて角砂糖の製造に成功した松江春次。大正時代、日本統治下にあった南洋の島々で製糖事業を興し、成功を収めた春次は今なおシュガーキングの名で知られている                                    

玉砕の島として知られるサイパン。平成17年6月、戦後60年にあたるこの年、天皇皇后両陛下が慰霊のため島を訪れた。あの悲劇が起こる前、この島には新天地を求めて本土から移住してきた人々の暮らしがあった。その大部分を占めていたのが、ジャングルを切り開き、畑を耕してサトウキビを栽培した開拓移民たち。沖縄や東北で深刻な問題となっていた人口過剰、そして貧困からの脱却を図るため、
春次は南洋の開拓に実業家としての人生をかけた。理想郷の実現を目指す春次に、次々と立ちはだかる苦難。しかし春次は不屈の精神でそれに立ち向かっていく。

未開の地だったこの島を発展させた春次の功績は、今なお、シュガーキングの名前とともに語り継がれている。昭和9年、島の一角に日本人と現地島民の手によって建てられた春次の銅像。激戦地となったこの島で奇跡的に破壊を免れた銅像は、成す術も無く、あの悲劇を見つめた。

アメリカ留学の経験から、その強大な国力を知る春次は親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六にこう告げている。「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」。
しかし!願いも空しく日本は太平洋戦争に突入。穏やかで平和な時が流れていた南の島は、血で血を洗う激戦の島と化した。

南洋開拓に生涯をかけた松江春次。その偉業は、戦争で海の藻屑と消え果てたのだろうか。

シュガーキングと呼ばれた男。
南洋の島に、理想郷の実現を夢見た会津人の足跡をたどる。

タイトル
『シュガーキングと呼ばれた男』

福島県会津若松市にある鶴ヶ城。明治9年、春次は幕末の戊辰戦争で激しい戦いが繰り広げられたこの城下町に生まれた。

代々、学問を奨励した会津藩。藩士の子供は、藩校「日新館」で文武とともに会津の武士道を学んだ。「弱きを守れ、卑怯な振る舞いをしてはならぬ。」己を厳しく律しながら、
利害や打算を超えて「義」に生きることを会津の武士道として説いたのである。

この武士道を貫いた会津藩は、幕末の戊辰戦争で新政府軍に全面敗北。朝敵の汚名を着せられたまま、下北半島の斗南へ移封となり厳しい生活を余儀なくされる。春次の父、松江久平もまた戊辰戦争で戦った後、藩の再興を願いながら、不毛の地で開拓に身骨を砕いた。武士の時代が終わりを告げてもなお、「義」に生きる父のもとに春次は生まれたのである。

松江春次の次男、宏次氏。春次の人となりを知る唯一の人物である。春次の兄・豊寿は、陸軍の軍人。第一次大戦中、徳島にあったドイツ人捕虜収容所の所長を務め、日本で初めて『第九交響曲』演奏の場を設けた。後に豊寿の行動は、西洋の騎士道精神の表れとして欧米諸国より賞賛されている。

厳格で実直な父と捕虜に人道的に接し武士道を貫いた兄。2人に見守られて育った春次は、旧制会津中学へ進む。そこで、春次は後年まで親交を深めたある人物と机を並べている。 
その人物は、世界の医聖と呼ばれた野口英世。ここ野口英世記念館には二人が共に映る貴重な写真が保管されている。

家が貧しかったため、特別聴講生として授業を受けていた英世は春次から度々、教科書を借り受けて勉強をしていた。卒業後も春次がニューヨークにあった英世の研究所を訪ねたり、会津で酒を汲み交わすなど二人の交友関係は後年まで及んだ。

 医学と実業という異なる道を選んだ二人。私たちはここにある共通の事実を見ることが出来る。 それは、外国にある日本人の全身像が英世と春次、二人の銅像だけであるという事実。 会津から世界を見据えた二人の未来が今なお息づいているのは果たして偶然なのだろうか。

明治政府の政策。それは富国強兵と殖産興業だった。西欧諸国に対抗し産業を育成することにより、日本が国家の近代化を目指した時代である。

実業家への第一段階として技術者の道を選んだ春次は、砂糖を製造する製糖学を学ぶため東京工業学校へと進む。この時代、日本の製糖技術は未熟だったが春次はそこに新たな可能性を見出したのである。卒業後、春次は大日本精糖に入社。しかし製糖業の本場アメリカで学ぶ必要性を感じていた春次は27歳の時、国の海外実業練習生試験を受験、会社に籍をおいたままルイジアナ大学の砂糖科に入学する。優勝名成績で大学を卒業した春次は
技術者としての腕を磨くため、フィラデルフィアの製糖会社に職工として入社する。

職工時代の春次。その苦労をしのばせるエピソードがある。人懐こい春次は同僚たちにかわいがられていた。しかし、ある部屋だけは立ち入ることが許されなかった。そこは製糖技術が開発される部屋だったのだ。歯がゆさを感じる春次…。そこでクリスマス休暇に入る前日、春次はある行動に出た。同僚達にバーボンを差し入れたのである。春次の熱意と茶目っ気にほだされた同僚はこういった。「君の好意に甘えて、今晩の宿直は君に頼む。でも戸締りだけはしっかり頼むぞ」誰もいなくなった研究室で、春次は一人、研究に没頭した。4年に渡る留学で春次は、アメリカに根付くある思想に感銘を受けた。それが開拓者精神だった。

海外留学を終えて帰国した春次は、大日本精糖の大阪工場に復帰。この年、母校・東京工業学校の学長・手島精一の娘ふみと結婚する。良妻賢母の教育を受けたふみだったが、新居に生活道具が全く無かったことに呆れ返ったという。春次は給料の大半を研究につぎ込み、残りは好きな酒代に使っていたのだ。

そして明治41年、春次は湿度の高い日本で困難とされていた角砂糖の製品化に成功する。一流の技術者として春次の名が知られる偉業だったが、春次は惜しげも無く、その功績を会社に残し退社している。

その後、春次はアメリカで学んだ製糖技術と経営理論を元に台湾の製糖会社で常務として経営に腕をふるう。そこで春次は、台湾よりもサトウキビ栽培に適した南洋群島の開拓を社長に進言するが、業績の好調を理由に春次の意見は却下。意見の対立から春次は重役の席を蹴って退社する。『己の本意にもとる仕事に未練は無い…』その目は遠い南洋の島々に向けられていた。

春次が創始者となった南洋興発制作のドキュメンタリーフィルム。戦後、アメリカに没収され、後に日本に返還されたいわくつきのフィルムである。そこにはシュガーキング松江春次の姿、そして春次が実現を夢見た理想郷が記録されていた!                

東京国立近代美術館・フィルムセンター。

終戦後、連合国軍総司令部、いわゆるGHQによって没収されアメリカに渡った16ミリフィルム。春次が創始者となった会社、南洋興発が制作したこの記録映像は、アメリカ議会図書館から、およそ30年前に日本に返還されたものである。

戦前の南洋開拓の様子を知る上で貴重な手掛かりとなるこの映像をサイパン出身で、戦前のアジア・太平洋史に詳しい山口洋児氏、そして春次の孫、佐伯圭一郎氏に同席してもらいフィルムの試写を行った。

音が記録されていない、無音の世界。だがそこには、サイパンをはじめとする島々を開拓し慎ましくも平和な生活を営む人々の暮しが克明に記録されていた。
<しばしBG ON>
そして…。 ※ONあって…

シュガーキング、松江春次。その姿や周りの様子から、昭和10年前後、春次が60歳の頃と推測される。さらに、映像からは昭和11年には3万人の従業員や農業従事者を数えた 大企業のトップとしての風格と共に、会津人としての人柄が伺える。

広大な広がりを見せるサイパンのさとうきび畑。この島での製糖事業を足がかりに、春次は南洋開拓を進めていった。

アメリカ自治領、北マリアナ諸島・サイパン。マゼランがこの島を訪れた16世紀以降、スペインやドイツなど列強国の支配を受けて来た北マリアナ諸島はチャモロとカロリニアンの2つの先住民族が暮らしてきた島である。第一次大戦後には、国際連盟の承認を得た日本の統治領となり、それは終戦までの30年間続いた。

南国の強い日差しを浴びて育つサトウキビ。以前は島の至る所で栽培されていたが、
今ではごく一部で家庭用に作られているだけである。日本統治時代、公学校で日本の教育を受けたチャモロ人のファン・ディアスさん。島に暮らす70代以上のお年寄りには、流暢な日本語を話す人が多い。

松江春次の開拓事業は、この島の経済や社会基盤の発展に大きく貢献したとされている。高校の歴史の授業では、当時の南洋開拓の様子だけでなく短期間で急成長した経営展開が詳しく取り上げられている。

島には春次の名前がつけられた幾つかの通りがある。シュガーキングロードにマツエストリート…。この島では、春次の名が今なお息づいている。

サイパンの中心地、ガラパンの郊外にあるシュガーキングパーク。この公園には春次の大いなる遺産が残されている。祖国日本をむいて聳え立つ高さ11メートルの銅像。昭和9年、サイパンをはじめとする南洋群島に経済的発展をもたらした春次の功績を称え、
社員や島民らの寄付によりこの地に建てられた。およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン戦にあって奇跡的に崩壊を免れたが、銅像には銃弾の跡が残っている。

サイパン開拓を始めてからの10年間を春次が綴った“南洋開拓拾年誌”。この本の序説にはこんな言葉が記されている。
『世界の平和は不用の領土を解放する国際愛から出発しなければならぬ。これからの日本は率先して人類の福祉の為、この世界主義の与論をリードすべき責務を持つと信ずる』

第一次大戦後、日本は国際連盟から南洋群島統治の委任を受け、コロール島に南洋庁を設ける。しかし島々のほとんどはジャングルが広がる未開の地、もしくは無人島だった。

大正10年。春次は期待に胸を膨らませサイパン、テニアンへ視察に向かう。しかし、そこで春次が目にしたのは、先の開拓で失敗した会社に置き去りにされた開拓難民千人の悲惨な姿だった。

春次は移民の救済を誓うと共に、サイパン・テニアンでの開発に確信を深めた。『この事業は必ず成功する…。』

視察を終え会社設立の資金集めに奔走する春次に、会津出身の東洋拓殖総裁・石塚英蔵が手を差し伸べる。東拓は海外拓殖事業を行う国策会社。同郷の石塚は、春次の熱意、そして周到な事業計画に心を動かされ出資を決める。

こうして、大正10年11月29日、ついに春次の念願が叶い、サイパン開拓、および製糖事業を柱にすえた南洋興発株式会社が誕生。社長空席のまま春次は専務に就任する。

その後、再びサイパンを訪れた春次は、地下足袋姿で島内を歩き回り、徹底的な現地調査を行った。そして、人口過剰と貧困が深刻な問題となっていた沖縄からの移民、島にとり残されていた人々を合わせた3千人で開拓に取りかかる。深いジャングルを切り開き、起伏が多い地形をぬって鉄道敷設のためのルートを作った。開拓は困難を究めたが、春次は常にその先頭に立ちつづけた。

春次は先行した2つの会社の失敗から、小作制度を採用した。これは開墾の難易度に応じて開墾費を決定し、その費用を小作人に支払う方式である。さらに本土からの渡航費用や当面の生活費を工面できないものには無利子で貸し出したため、文字通り、無一文からの移住が可能だった。こうして春次は、明日をも知れぬ暮らしをしていた先の移民たち、そして新天地を夢見てやって来た新たな移民たちに生きる希望を与えた。

こうして会社設立から2年4ヵ月後、南洋の孤島サイパンに大規模な製糖工場が完成する。

自らの夢に向かって突き進む春次。しかし!ここから春次にとって苦難の日々が始まる。

サトウキビの害虫、オサゾウムシ。この10センチにも満たない虫が1回目の製糖に大打撃を与えた。収穫したサトウキビの8割が内側から腐り、原料として使えなかったのである。オサゾウムシを駆除するため春次は、畑と工場内にあるサトウキビを全て焼き払うという 苦渋の決断を迫られた。さらに!

大正12年9月。直下型の大地震、関東大震災が発生。東京の倉庫に収めていた砂糖がすべて焼失する。経営が急激に悪化する中、2回目の製糖作業が行われるが再び失敗。サイパンのみならず遠くはなれた本土でも 春次を非難する声があがり始めた。四面楚歌の状況に追い込まれる春次。サイパンではざれ歌が流行し、子供までもが唄う有り様だった。

孤軍奮闘する春次を影から支えたのが妻・ふみの存在だった。ふみは自分の着物や指環を売って会社の運転資金を作り、子供達との生活を支えた。

春次には、この困難な状況を打開するための知識と経験に基づいた自信があった。オサゾウムシ対策として、天敵タキニット・フライをハワイから輸入、さらにサトウキビの品種改良を進めるなどの対策を講じた。こうして万策尽くした上で3回目の製糖が始まる。ごうごうたる大音響と共に機械が運転を開始。一同が固唾を飲んで見守る中、良質な砂糖が次々と機械から吐き出されてきた。社員から沸き起こる万歳の叫び声!

春次は早速、東京に暮らす妻にあて、電報文をしたためた。『ワレ、ツイニセイコウセリ』肩を震わせ春次は男泣きに泣いた。

サイパンの製糖が軌道にのると春次は、すぐさまテニアン島の開拓に着手。昭和5年、テニアン製糖工場が完成し、南洋興発の製糖業はさらなる飛躍を遂げていく。開拓者、実業家、技術者としての3者を兼備えた春次は時間を見つけては農場や工場の視察に出かけた。

8歳から5年間に渡って、日本の小学校に留学したチャモロ人のホアン・ブランコさん。島民としては数少ない南洋興発の社員だった。

免税店やホテルが立ち並ぶガラパン。日本統治時代、ここには「南洋の東京」といわれる日本人街があった。

南洋興発の事業拡大とともに、サイパンをはじめとする島々に日本人社会が作られていった。中でもガラパンは、様々な商店が建ち並ぶ南洋群島で最も大きな街だった。南洋興発が力を注いだのが、教育と医療施設の充実島には、今の小学校にあたる国民学校、そして島民の子供が通う公学校のほかに会社独自の実務補修学校や家政学校が作られた。さらに事業所のあるところには医務室を置き5,6人の医師を常駐させ、最新の医療設備を整えたのである。サイパンでも高度な医療設備を持っていたのが南洋庁立病院。現在はマリアナ諸島の歴史資料を展示する北マリアナ博物館となっている。

この博物館には、春次の銅像建設に至る経緯や詳細を綴った貴重な資料が保管されている。そこにはチャモロ族の代表から送られた祝いのメッセージが収められていた。

昭和9年、南洋興発の収める出港税が南洋庁の財政の8割以上に達したのを記念して建てられた春次の銅像。当時、学生だった春次の次男・宏次さん母や妹達と共に除幕式に出席している。

さらに、春次は教育を重視した人物でもあった。昭和15年、技術者の道を志す者たちの育成を目的に  故郷、会津工業高等学校・機械科新設の際に33万円を寄付している。これは現在の貨幣価値に換算すると数億円。しかもこの金額は松江家の資財の9割にあたる。

フィルムには除幕式に続く、祝賀会の様子が収められている。ふるさとの伝統芸能を披露して、喜びを分かち合う移民や社員たち。大正14年に5千人だった移民の数は、この年、1万8千人を数えるまでになっていた。その大半を占めていたのが沖縄、ついで春次の故郷・会津からの移民である。他にも山形、八丈島、鹿児島など農村や漁村で苦しい生活を余儀なくされていた人々が春次の理想郷ともいうべき新天地での生活を送っていた。

サイパン出身で現在、福島県田島町に暮らす室井義市さん。会津から移住し、サイパンでサトウキビの栽培農家を営んだ両親のもと、8人兄弟の長男として生まれた。祖父母や兄弟ら合わせて13人という大所帯。貧しい東北の暮しでは、大家族が共に暮らすことは
不可能だったと当時を振り返る。

製糖会社としてスタートした南洋興発はロタやパラオなどの南洋群島、さらにニューギニアやインドシナなどの外領地に事業を展開していく。その内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時、満州で隆盛を誇った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。しかし、昭和15年、65歳の春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。さらに、南洋開拓にかけた春次の夢が、
打ち砕かれる時が近づいていた。

島の南西部、チャランカノア。ここは南洋興発の製糖工場や社宅、それらをとりまく日本人街が地区全体に広がる場所だった。今でも一部、当時の建物を見ることが出来るが全体の規模からするとごくわずかである。

およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン。廃墟と科した市街地からわずかに離れていたとはいえ銅像が残ったのは奇跡だと、激戦の様子を知る人は話す。豊かで平和な理想郷の実現を夢見た春次は一体、この戦争をどう見つめていたのか?

留学の際に肌で感じた、強大なアメリカの国力。『日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道を探るべきだ』それが春次の持論だった。

昭和14年8月。春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。春次は、非開戦派だった山本に頭をさげ、こう告げた。「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
しかし!

それから2年後の昭和16年。連合艦隊の戦闘機部隊は、真珠湾を奇襲攻撃。宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた春次は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。さらに春次は、サイパンが激戦の場になることを想定していた。 

当時、会長として経営の一線を退いていた春次だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優先に考えて、本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。

昭和19年、海軍司令部は南興に、軍への全面協力を命じる。製糖工場は全て操業を中止。成人男子はもちろん、日本人児童や、公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出された。

昭和19年、6月11日。アメリカ軍によるサイパン総攻撃がはじまる。数日間に及ぶ、
戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、春次の理想郷が地獄と化した。

島の北部にあるバンザイクリフ。米軍に追い詰められ、行き場を失った多くの民間人が、ここから飛び降りて命を絶った。サイパン戦で死亡した民間人の数、1万2千人。その大半が南洋興発の社員や、本土からの移民とされている。

戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を、そして、春次は公職追放令の指定を受ける。こうして南洋興発は消滅した。

さらに春次を支えつづけた妻・ふみは戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。愛する家族、そして苦労を分かち合った社員や移民たちの冥福を祈る毎日が続いた。

戦後、春次は再起をかけ、フィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画を進めた。しかし…。アメリカのビキニ水爆実験のため断念。戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた春次。その人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。

そして昭和29年11月29日。春次は脳溢血により、その生涯に幕を閉じる。享年78歳。 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。

座敷の床の間に飾られた掛け軸には、「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

南洋興発の元社員や、その親族で構成される南興会。あれから60年。当時社員だった人はここ数年で減り、サイパンやテニアン、ロタなどで生まれ育った世代に代替わりしつつある。

サイパンに生まれ、サトウキビ栽培を手がけた父の下13人家族で暮らしていた室井義市さん。あの戦争で室井さんを除く家族全員が死亡。当時、12歳だった室井さんだけが生き延びた。忘れられない忌まわしい記憶。それでも何十年もの間、室井さんは、再びサイパンで暮らすことを望んできた。

移民たちが月見島と呼んだ、鳥の楽園、バードアイランド。この島を正面に望む場所に室井さんが少年時代を過ごした家があった。

この巨大な銅像が、あの戦禍を免れたのは確かに奇跡と呼ぶべきものだろう。しかし、日本統治が終わり60年がたった今もなおこの像が立ちつづけている理由。それは島民達がこの像を守りつづけてきたからに他ならない。

歴史に翻弄されながらも、会津武士道と開拓者精神を胸に己の人生を歩みつづけた松江春次。彼が南洋の島々で築き上げた理想郷ははかなくも消え去りました。しかし多くの人に今も愛され、尊敬の念を込めてシュガーキングと呼ばれるその生き様は 私達に一つの問いかけをしているように思えるのです。人は何のために生まれ、何を為して死んでいくのか。

春次はこの世を去るとききっとその答えを見つけていたに違いありません。平和で穏やかな南の島を心に思い浮かべながら…。(了)


 


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